「評価」をやめたい話【日記】【読書レビュー】『推し、燃ゆ』
お久しぶりです。
毎日色々やって充実して生きていたのですが、日々充実…?していると日記を書く行為からも遠ざかってしまって、記事を書くことも疎遠になってしまいました。
あとは開設したブログ用Twitterアカウントの方で日々雑感をたくさん投下しているので、余計にまとめてアウトプットすることから遠ざかっている気がします。
どうも家を出たくない日ってあるじゃないですか?
— 森@よく食べてよく寝る (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年2月23日
でもデミグラスソースとマヨネーズが切れてることに気がついて、それがないと献立が成り立たないことにも気がついて、やっぱり家を出たくなくて暴れたくなる日もあるんですよね
たった140文字でも、アウトプットしちゃうと結構脳内の言語化は一定数達成されるので「やったったで!!」と脳内ドーパミン出るんですよね(私調べ)
そんな中で今回なぜわざわざ記事書こうと思ったかという話になりますが、というのも
①色々と考えて対策して動いていたやりたい進路がひとつ選考に落ちて久々に結構凹んだ
②最近恋人とのやり取りで考えるところが多かった
③ここ数日で本を数冊読んでいて、文章に影響を受けたのでアウトプットしたくなった
という状況が重なったからですね。
一番直接的に私の創作欲を刺激したのはこの本です。
話題の本なので知ってる方も多いかと思いますが、今回はこちらの感想っぽいものを書きたいと思います。
私の所感としては、
この物語は「わたし」の話だと思わせる力があると思いました。
今の時代を生きる人間の感覚を鮮明に描いていて、
謎の気だるさや無力感が常にあって、息が浅いような感覚、
本当は現実世界で自分が持っているものはゼロではないのだけど何も持っていないと感じる気持ちなど、
そういった矛盾を多く孕んだリアルさがありました。
推しがいる人いない人関係なく共通するものが多いんじゃないかなと思います。
なので、「推し、燃ゆ」というタイトルで『自分には関係ない話だな〜』と思った方でも読んで欲しいなと思うんです。
鮮明さゆえに、現実世界の
「別に全ての話にオチやハッピーエンドがあるわけではない」
「真相が全て解明されるわけではない」
という特性も持ち合わせているので、読了後に重いと感じる人もいるかも知れません。
この本を読んだことで、別の世界線であり得たかも知れない別の「わたし」の人生を体験したので、私も今の私について記しておきたいなあと思いました。
感情を全て綺麗に整理して昇華させなくてもいい、そのまま書いていい、と背中を推してもらった気がしました。
これはTwitterでもちょっと前に書いたんですが(以下参照してください)
Twitterはそれぞれの幻覚や妄想を語る場でしかないと思ってるんですよ…
— 森@よく食べてよく寝る (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年2月5日
人間は各個人の目というレンズを通してこの現実世界を見てるわけなので、その人の認識してる事実には既にその人の解釈という名のレンズで光の屈折が加わってる状態なんですわ
純粋情報じゃないから、それはつまり幻覚なんですよ
人間がこの世界で見てるものって全部その人間の眼球の水晶体というレンズを通して見ているわけじゃないですか。
だから、もう人間は生まれ落ちた時からこの世界の「何も編集が加えられていない純粋な情報」なんて見てないと言えるんじゃないかと。
人間の見ているもの、考えているものは全てその人間個人単位の「妄想や幻想」と言えるんじゃないかと思うんです。
だからこそ、人がこの世に発信する情報や考えに貴賎はないと思うんですよね。
Twitterやってるとよく思うんですが、発信する情報に対して発信者の質によって価値がつけられてきている昨今の社会潮流がありますよね?
でもビジネスやマネー知識を発信する人が偉くて、日々食べた菓子パンの美味い不味いを発信する人は下らない…といったランク付け自体に意味を感じないんですよね。
それ全部みんなが投影している妄想だよ?と思います。
人間それぞれが見ている幻想を発信して共有して行くのが人生で、
その個人幻想に共感してくれる人が出てくれば、共同幻想になっていき、
それがより大きな規模になってくると社会 communityとなる…
というサイクルなんですよね。(私の中では)
最近それが顕著に現れているのがオンラインサロン文化だなーと思います。
それに加えて言いたいのですが、
今書いているこの考えは主に、私が大学で受けていたドイツ文学及び哲学の講義の内容からインスパイアされたものです。
私は今「私の考え」として世界にこうして発信しているわけですが、その考えの背景には数え切れないくらい色々なテクストで影響を与えた別の考えが存在しているので、
つまり「100%純粋で新鮮な考え」ってこの世に存在しないんじゃない?と思うんです。
だからこそ、情報の発信者に偉いとかいう立場の違いってなくない?と思うんですよね。
もちろん参考になる情報を発信してくれる人はいますが、その人だけが偉い!のではなくて、その人もたくさんの先人の情報を参照したりインスパイアされているのだから、
評価するのならこれまで受け継がれてきたプロセス部分であって、
それこそ人間の営みの尊さだろ・・・と感じている次第です。
というか、何でも「評価」するのって苦しくないですか?
私は苦しいです。
昔は(今も引きずっていますが)人を評価する側に回ることで優越感を自分に感じていました。
真っ先に評価する側に回ることで、自分が評価されこき下ろされて無能扱いされる可能性から逃げていたんだろうと思います。
今思うとこれっていじめっ子じゃん…と自分が怖いです。
それに評価するのが当たり前になっていると、自分のことすら常に評価してしまうので生きるのがしんどくなってしまうんですよね。
ちょっとした挫折、失敗に対してのマイナス評価がクソデカくなってしまう。
自己肯定感希薄人間としては マイナス評価=「自分が生きてていいと思える点」の減点 なので、
もうだめだ死のう…スイッチ入りがちなんですよね。笑
そう!やっぱり「評価」からの脱出が一番の人生の課題なんじゃないかと思っているわけです。
こんな風にグダグダと私も自分個人の幻想を文字をこねくり回して表現していることも、
評価しようとしたら
「自分語り乙」「拗らせ」など、低評価になるかも知れませんが…
うっせえ うっせえ うっせえわと。
(流行っているので言いたかった)
表現に貴賎はないので!
評価するという行為は本質的ではなく、後々自分の首を閉めてきて苦しいので!
縛られないことにしました。
『推し、燃ゆ』も、
その残酷なまでの鮮明な痛々しいくらいの文章が
私の背中を押してくれました。
たぶん現代版『罪と罰』入門…現代らしくふわっとサラッと読めるライト版って感じです。
本編と照らし合わせてもう少し語ってみたいと思います。
本編の「あたし」は、推しのことを「背骨」と評していますが
今日の「私」の「背骨」となるものは何なんだろうと考えてみました。
多分、
「わたし」というものを人生をかけて探りたい、試行錯誤したい、
個人の幻想であっても他人と共有したい、幻想どうしの境界線の限界に挑みたい、
という気持ちが私の生きるための「背骨」なんじゃないかなと思います。
私は生きるのが馬鹿みたいに下手くそなくせに、痛々しいくらいに他人に興味がある人間なんだなあと思います。
そして最後に、小さい頃に読んだ時から私の好きな詩と、最近好きな曲から引用して締めたいと思います。
ありがとうございました。
明日からの日々も自分の幻想と他人の幻想の間でもがこう。
- 「二十億光年の孤独」(『二十億光年の孤独』谷川俊太郎、1952年)
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
- 「夜天」 女王蜂(作詞作曲:薔薇園アヴ)
たとえば言葉の総てに力を失ったとしても
誰かのことを思う心に嘘も偽りもなく
ひたむきな美しさは切なさや儚さを越えて
呆れるほどに高く深く さあ、どこへだってゆける
(中略)
思い詰めてしまった夜の果てわたしたちは出逢い
持ち寄る孤独は星たちのように、胸に宿り
胸に宿し続ける
女王蜂 『夜天(STARRY NIGHT)』Official MV