言葉の遅効性とその責任について
こんばんは、2026年になりましたね!
こちらのご挨拶は遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
さて、こんなタイトルですが、書きたい内容は簡単な2026年の抱負についてです。
最近めっきり寒くなりましたので、この寒さをどう耐えようかと考えた末に、寝る時に湯たんぽを入れることと腹巻きを巻くことを実行しています。
腹巻きといえば、私にとって思い出されるのは中学生ごろの校長先生のお話です。
全校集会のある朝、たしかその日も冬場だったので寒さに耐えるには腹巻きが良いと言うお話をされていたんだと思います。
校長先生にも娘さんがいらっしゃるので、健康のためにはお腹を冷やさないようにと腹巻きを着るのをすすめていて、校長先生自身もちょうど毎日着ていて調子がいい、という話だったと記憶しています。
その話を聞いていた中学生当時は、何を言ってんだとばかりに「ダサい腹巻きなんて必要無いわ」と思っていたのですが…
28歳にして、腹巻きを24時間身につけることにした結果、すこぶる体調が安定している気がするのです。お腹を下していないし、生理の時もお腹が痛くない気がする。ダサさが快適さを上回ってきている。
数年(いや10年以上)経って、あー懐かしい!と、このエピソードを思い出したのですが、響くまでの間がとんでもないですよね。一体何光年離れていたのかよく分からないくらいに。
言葉って遅れて届くものだなあと実感しました。
聞いたり見たりした時からだいぶ経ってから、あの時の言葉はそう言う意味だったのかと腹落ちしたり、共感してみたり…
さらに今28歳にして、すこし校長先生の立場に立って考えてみますと、全校生徒数100人を前にして話すなんて責任を感じると同時に、話題選びに苦慮するよなぁ…と思い、そんな中で毎月(正確な頻度なんて忘れてしまいましたが)適切な話題を考えてスピーチするという仕事をこなしていた校長先生も立派な仕事人だなぁと、漸く自分と地続きの同じ"人"にも思えたりするのですが。
その場では届かないかもしれないけど、時間が経ってから響くような言葉を選んで、適切に伝える。
言葉を使うものとして、この特性をしっかり認識した上で、ある種の責任を持って発信していかないといけないなと思いました。
時間という概念は過去から今、未来に至るまで不可逆な3次元的なものだと思われていますが
言葉を使う時に限っては、時間軸を無視して過去に戻れるので4次元的な可能性を秘めているのかもしれませんね。
(私が本を読むのが好きなのもこれが理由です。)
私がこのブログを始めたのも、何か自分の軌跡を残したかったというのと同時に、未来どこかで思い出して貰えるような(そしてあわよくば元気になって貰えるような)言葉を紡ぎたいという気持ちがありました。そして今もあります。
温故知新という四字熟語がありますが、私の言葉が誰かにとっての故となれたら嬉しいです。
2026年も自分の言葉に責任を持って、どこかの誰かに何かを伝えていけたらいいなと思っています。
皆さん今年も良い年にしましょう。
※ブログを更新するかは定かではありません。
28歳、経過記録再開します。最新のうつ事情について。
こんばんは、また数年ぶりの更新になります。
このブログを見てくれている知り合いに向けて、
または、たまたまネットの海の中でこの記事を見かけてくださった方に向けて、
改めて挨拶するような記事をひとつ書きたいと思います。
24歳のその後、いろいろなご縁があった結果、行政機関関係で仕事をするようになりまして、文章の書き方に少し熟練度がチラつくようになったのではないでしょうか。
昔に更新していた記事を振り返って読みましたが、改行と文字サイズ変更、色変更など多用しすぎていて、大変読みづらく心苦しかったです。
こんな文書案を出したら、赤入れされまくって返ってきて清書させられるわ…と震える限りです。
これが大人になるということでしょうか。
最近のうつ事情について
さて、本筋に話を戻します。
久々に記事更新をしようかなと思い立ったのは、例に漏れず、振り子の波のbadモード(うつ)がやってきて自分の存在理由や存在価値について考えるようになり、自分の深部を見つめなおし、原点回帰するタイミングになったからです。
どうやら、数年おきに人生のbadモードは襲ってくるようです。
学生時代のそれとはまた質が異なってきますが、なかなか厄介な荒波です。
数年前からこんなブログを書いている性分なので、自分を客体化してみて俯瞰して分析することについてはだいぶ得意とは思っていますが、
どうしてもうつ状態は、昔の記事でお話したとおり「真っ暗なトンネルの中にいるようなもの」です。誰よりも客観視しているようで、その実は何も見えていなかったんだ、という気づきがありました。(早く読ませろという人は目次から②に飛んでね)
今回のbadモードを抜けるにあたって、大きな契機は2つありました。
1つ目は、このブログを再度読み直して勇気や元気を昔の自分からプレゼントしてもらったこと。
2つ目は、現在同棲している恋人と本気の喧嘩をし、すれ違いを解消するために腹の底を見せ合ったこと。
おまけとして、3つ目は、古くからの友人たちが声をかけてくれ、気晴らしの旅行やライブ参戦、カフェでのおしゃべりなどに付き合ってくれたことです。(本当にいつもありがとう。)
また、数年前から筋トレをしていますが、この筋トレを通じて、ジムでトレーナーさんと出会い、刺激を受けたことも回復に役立ちました。筋肥大にも役立ちました(やかましいわ)。
このように実際のところは沢山の要因によって前向きな思考回路を取り戻し、暗いトンネルを抜け出したのですが、前述のとおり、大きく2つに絞ってお話したいと思います。
①昔の自分記録からの再発見
皆さん、日記はつけていらっしゃいますか?
ジャーナリングなど、自己啓発のために朝活テクニックとして推奨されている昨今ですが、私は、これを精神衛生の面からもお勧めしたいと思っています。
なぜなら、
- 過去の自分もこれだけがんばっていたな、と自己肯定できる
(うつの時はとにかく自分は何事も成せないゴミ人間だと思ってしまう。)
- 今の自分の引き出しにはない言葉や感情を思い出せる
(暗闇のトンネルの中にいるので感受性が枯れている気がする。自己否定する言葉はすぐに浮かぶのに、不思議なものです。)
- 過去の事例を元に対策をとれる
からです!
私の場合は、特に
「”しんどい”に学生も社会人もない(=自分と他人を比べる意味がない)」※注1
「うつは一つのキャリア」※注2
といった過去の自分の言葉に救われました。
思い付きで書き散らしていたので記事にまとまりのないブログでしたが、
等身大の思いのたけをブログに綴っていた大学生のころ、はたまた中学生のころの自分が、こんなに悩んで、もがきながら生き続けてきてくれたことに「ありがとう」という言葉がまず浮かびました。
こんなに沢山悩んで、悩みぬいてきた自分が”頑張ってない”わけがないよな、と素直に思えました。
うつ特有の自己嫌悪や自己否定に終止符を打てたのです。
自分の軌跡を振り返るためにも、ブログでもなんでも形は問わないと思いますので、日々の自分の記録を残すことは有用だなと思いました。
短文でもいいし長文でもいい。人に見せなくてもいいので、素直に書くこと。結論がなくてもいい。
そして時々振り返って、少しばかり恥ずかしい思いをしながら、時々くすっと笑いながら、自分で自分のことを愛してあげましょう。
※注1:この記事です
※注2:この記事のタイトルですね。しかしあんまりこの記事自体には中身ないです…。
この記事含め、ブログ開始時の頭3連続エントリだけはちゃんと文章構成練ってから書いた超大作です。ぜひご一読を。(宣伝)
②恋人とのすれちがい→仲直りと同時に闇を抜け出す
恋人との喧嘩って、かなりダメージを受けませんか?私は受けます。
こんなひどい喧嘩したら、もう私のこと嫌いになるよね→嫌いになられたら、もう私の存在価値なんてないよね→消えよ
簡略化すると、メンヘラ女子の脳内はこんな感じの思考回路をたどっております。(そうだよね?)
ざっと今回の喧嘩の経緯をお話すると、私は5月末から鬱で仕事をお休みしはじめており、同棲中の彼氏が家事を多めに担ってくれるなど、私の療養を支えてくれていました。しかし、ある日些細な言葉のやり取りが重なって、彼氏の中で何か張りつめていた糸が決壊したのか喧嘩に発展してしまいました。
言葉の応酬になると、思ってもないことを言ってしまうことってありますよね。
この時、私の中で絶対に言われたくない過去や生い立ちのことについて彼氏から追及されてしまい、この先無邪気に彼氏の隣で笑っていられる自信がなくなりました。
傷ついたとはいえ彼氏と再度やり直したかったので、私の心の底をすべて手紙に書いて少しの時間距離をおいたのですが、彼氏もその手紙を受け止めてくれ、はじめて腹の底を話してくれました。
これまで約2か月私を支え続けていた間、特に初期は元気がなくぐったり寝ていることしかできない私を見るのがとても怖くて、不安で、心配だったこと。
私が夜寝れなくなって睡眠薬を飲み始めたことを聞いて、睡眠薬の飲みすぎで私が目を覚まさない最悪の夢を見て飛び起きたこともあったし、出勤したあとに私からの「おはよう」の連絡がないと、何かあったか不安で心臓がバクバクしていたこと。
彼氏自身は鬱になることはないだろう性格で理解ができないから、Amazonで鬱の本を2冊買って読んで勉強していたこと。
毎晩、寝る前に食卓での会話を振り返って「何かうつに影響があるような話してなかったかな、あの受け答えでよかったのかな」と考え込んでいたこと。
元気のない姿を見るのが怖くて、帰宅するのが不安だった時期もあったこと。
初めて彼氏が感情的に涙を流しながら、すべて包み隠さず話してくれました。
(※彼氏の中で張りつめていたバランスが崩れたとはいえ、傷つけるようなことを言ったことは謝罪してくれました)
では、彼氏がこういったことを考えてくれている2か月間、私は何を考えていたかというと…
良いお年頃の私は、自分の鬱はさておき(さて置くな)同棲のその先の結婚の話をあまり自発的にしてくれない彼氏への不安が募っていました。
仕事にいけなくなり、家にいるのに家事もできず、こんな出来損ないの私に対して彼氏は失望しているに違いない。
でも、私のことはまだ好きでいてくれているのかな?結婚したいって思ってくれているのかな?と、藁にもすがる思いで彼氏からの好意(=私の存在価値の肯定)が欲しくて、「結婚」という言葉が出ることを期待していました。
※今思うととっても滑稽なすれ違いですが、これはうつ状態の特性をよく表している事例だなと思ったので、お恥ずかしながら包み隠さず書かせていただきました。
なぜこの事例がうつの特性を表しているかというと、出来事を抽象化すると以下の構図になっているからです。
【大前提】うつは自己否定の思考が暴走する(いわゆる自動思考)
→自分はお先真っ暗で、なおかつその闇が明けるとは到底思えない
→しかし、心の底の思いとしては生きたい。生きたいけど、暗闇のトンネルの中なので保証がない。生きるための道筋もわからない。
→何か、圧倒的な外部からの保証(自分の存在を肯定するなにか)を求めたがる
→しかし、自分が信じる外部からの保証がその通り差し出されないと、混乱し、受け取れない(認識できない、に等しい)。
→やはり自分は肯定されない、価値のない人間なんだと思い込む。
→以下ループ
私の場合は、彼氏からの「結婚」という保証・担保のようなものを求めていました。
お先真っ暗な自分が唯一逆転できるのは、肯定されるのは、彼氏から結婚したいと求められることだ、と信じて疑いませんでした。
(※自己弁護のため何度も言いますが、今思うととても滑稽なこだわりです!)
そのため、やたらと「結婚」という言葉にのみこだわり、視野狭窄に陥った結果として、前述のような日々の彼氏の心のうちの葛藤や些細な行動による愛情表現などをくみ取ることもできず…「自分は愛されていない」「価値のない人間だ」と自分の首を自分で絞め続けていたのです。
彼氏からの初めての感情の吐露を受け止めた結果、私は自分の視野の狭さに気が付きました。
こんなに涙を流すほど真剣に悩んで行動していてくれていた彼氏が、私のことを愛してくれていないはずがないし、何をそんなに不安になる必要があったんだろうか。
そして、このうつの暗闇トンネル状態に陥っていた構図に気が付き、過去の自分の繰り返しだと思い至りました。
※過去の記事で暗闇の話をしているものがあります(下記は一部抜粋)。
6年は長い。正直にここにいる読者様方に打ち明けると、暗闇のやうであった。動かなかったわけではない。わたくしなりに動いた6年間であった。しかし、先ほど述べたやうにわたくしは素っ頓狂な脳髄に支配されていたので、視界も暗闇に支配されたやうなもので、前だと思ってあるいてゆけば壁に当たり、右に行けばお皿を割り、といった調子なのである。
(略)
暗くて一寸先も見えず、次に動けばどうなるかわからない、といった恐怖心が理性を麻痺させ、本能的に自らを守るために「化け物」を生み出す。その「化け物」がいるからわたくしは動けないのだ、「化け物」が今もわたくしを見張っている、という恐怖心が24時間わたくしをつきまとうのである。
こうして、紆余曲折というか超新星爆発のようなテコ入れはあったものの、彼氏が腹のうちを明かしてくれてから私の回復はすさまじい速さでした。
なにせ、これまで見えていなかった、受け止められていなかった彼氏からの愛情がすべて見えるようになったんです。
暗闇のトンネルを抜けました。
最中には、まtttttったく明ける気がしない長い長い暗闇のトンネルですが、明けるときは一瞬です。
うつの自動思考からの脱出は、いつでも小さなきっかけで起こります。
高速道路を走っているとき、電車に乗っているとき、トンネルを抜けるとパッとまぶしい光が差し込んできて、空気圧でガラス窓が押される感覚すらありますよね。
それくらい、パッと視野が晴れるんです。
愛されていない、と思っていても、もしかしたらそれはうつの暗闇トンネル効果で見えなくなっているのかもしれません。
愛情というものは、愛する能力も大切ですが、愛を見つけて受け取る能力というのも、等しいかそれ以上に大切なのかもしれないですね。
それでは、大変長い記事となってしまいましたが最近あったうつ抜け(?)事情について包み隠さずお届けし終えたので、そろそろ記事を切りたいと思います。
きっと、今ブログを読んでくださっているあなたの周りにも愛情はあると思います。
暗闇の中にいる方は、不安かもしれませんが、ある日些細なことで闇は晴れます。
暗闇の中にはいないよ~という方は、これからも些細なことからも愛情を見つけ、受け取る感受性を鍛えつづけていきましょう!
当初から、うつ抜けならぬ「うつのサバイバル演習」を等身大でお送りするブログを銘打っていますが
これからも、生き方についてシェアしていけるようなブログにしていきたいなと思っています。
おやすみなさい!また明日!
(蛇足)
トンネルの話で高速道路の例えを出してから思い出したのですが
「ドライブ・マイ・カー」という邦画ご存じの方いらっしゃいますかね?
車を運転するということ、道を走るということは、人生を進んでいくことと重なる部分がだいぶあると思います。映画作品でも隠喩的に表現されること多いですよね。
とにかく人生が進み続けるなかで、ようやく精算できる心の葛藤ってあるなぁ~と感じた映画です。
上映時間がバリ長いので、暇なときに見てみてください!(Filmarksのリンクを貼っておきます)
23歳の私へ、24歳の私より/そして30歳の私へ、宿題です
1年ぶりにブログを開いて、ようやく文字をしたためる覚悟が決まった。
いつにも増して、とてつもなく個人的な出来事を振り返った随筆文になるだろう。
1年前の自分を思う
1年前の23歳の私は、自分なりに大きな決断をして新しい道に足を踏み入れて学舎の扉を叩き、同時に新しい愛に出会って希望に満ちていた。
もちろん、不安もなかった訳ではない。
新しい決断には不安がつきものだ。
「資格試験に合格できなかったらどうしよう」
「恋人と別れる日が来たらどうしよう」
そんな、まだ起こってもいない未来の到来をなぜか予感しているような気持ちになって一人不安になっていた。
その予感は、図らずしも当たっているものもあった。
1年前の私に伝えるには酷かもしれない現実があるが、
正しく伝えたいのは、同時に希望もあるということ。
人生には、常に光と闇が共存しているのかもしれない。
「浮き沈みがある」と聞くとなんだかマイナスに聞こえるが、
「振り子は、右に振れたらもちろん左にも振れるよね」と聞けば、なるほど、そうだな。と思えるだろう。
波がなんで上下だけだと思い込んでいるのか。
左右に揺れることもあるだろう。
そんな人間の認知の適当さ、思い込みのあっけなさを実感する1年でもあった。
一つの目標達成という経験
さて、私は精神保健福祉士という国家資格を得るため去年の春、専門学校に入学した。
1年間、正確には4月からの10ヶ月間で、本来福祉系の4年制大学で学ぶ内容を凝縮して詰め込んできた。
こんな量の勉強を短期間で詰め込んで、果たして自分はちゃんと合格できるのだろうか、と不安な日の方が多かった。
理論的に精神疾患についての知識や相談援助技術を学び、演習の時間に実践し磨いてきた。
でも大丈夫、
腐らずに頑張ってきた、紛れもない私自身の力で
国家試験本番で9割の得点を獲得できたのだ。
常に自分を否定的に評価してしまう自分も、ついにこうして数字で結果が出てしまうと
認めざるを得ないだろう。
自分が努力をできる人間であること、そして結果を出したということを。
自己採点の結果が分かった日、
私は、一人泣いた。
右へ左へ
もちろん、国家試験本番まで紆余曲折はあった。
振り子が左右に振れまくっていた。
春、
新しい環境へ適応する大変さ
勉強への焦り
いろいろなことで心が揺らいで、恋人にもバランスよく余裕を持って接することができなくなっていた。
自分の不安や焦りを相手に吐露することは出来ず、
恋人の就職活動などを明るく励ますことに終始していた。
初夏、
家族とのいざこざが予期せず起こり、初めて人との電話で号泣した。
感情的に揺らぎやすい自分のことも自覚していた。
そんな中で、一番信頼していたはずの恋人から急に別れを切り出され
またみっともなく号泣した。
久々に嗚咽が酷すぎて上手く息継ぎもできなかった。
感情が揺らぎやすい私のことを、これからも好きでいる自信がなくなったこと
お互いに一緒にいて幸せなのか疑問に思ったこと
それらを理由に、急に距離を置きたいと言い出されても到底納得はできなかった。
やっぱり私は感情的で重い女と言われて再度振られるのか。
と何度自嘲したのか、もう覚えていない。
おそらく父親からの愛情不足ゆえに恋人に代役を求めていたことを指摘され、
そんな感情的に揺らぎやすいところが前から嫌だったと言われたことは
今でも時折思い出すくらいに、私の心を傷つけた。
嫌なところがあったら、できる限り直したいから言ってね。
そう前から伝えていた私の努力はなんだったのだろうか。
特に不満はないかな、と言っていた当時の彼は嘘つきだったのだろうか。
過去のやり取りまで否定されるような、そんな汚い終わり方を選ぶような人だったんだろうか。
賢くて、議論もできる彼となら、たとえ問題が起こっても話し合いで建設的に解決できると思ったのに
自分の直感は間違っていたのだろうか。
最後に聞いた電話越しの彼の冷たい反応や、
友達に戻ろう、と自分勝手なことを言った後の彼からの冷めたLINEの返信を見るたび
胸が酷く苦しくなって、常に吐きそうだった。
久々に自分の心を開いて、マイナスな感情も共有していいかなと信頼していた人からの裏切りは
思った以上にキツかった。
常に胸が苦しくて吐きそうだからご飯を食べる気にもなれず、
家の中のどこにいても、彼と一緒にいた時間を思い出してしまい
思い出よりも広い湯船に浸かりながら泣いた。
ベッドに横になっていても、自分の孤独を呪って泣いた。
夏、
気がついたら5キロ痩せていた。
傷心、しかし…
不幸な自分を呪っていても、時間は休ませてはくれなかった。
如何せん今年は受験資格獲得のために1年みっちりとスケジュールが詰まっていた。
ある意味、この忙しい時間の流れが失恋を忘れさせてくれた。
人間にとって、一番毒なのは暇な時間かもしれない。
地域の福祉施設へ実習に行った。
いろんな人と出会い、会話をした。
いろんな人が日々生きて、ただ暮らしているという実感を得ることは
傷ついた心を何より癒した。
たった10数日しか関わっていない私との別れを惜しみ、
感謝を伝えてくれた人もいた。
人生において、
傷つくのは大抵人との関わりの中であるけれど
同時に、癒されるのも人との関わりの中なのだ。
秋、
就職先が決まった。
少し余裕が出てきて周りの人に興味を向けて遊びの時間も持とうと思い始めた。
好きだったファッションをまた楽しみたくなって髪の毛を染めた。
痩せたのをきっかけに、体を絞ろうと思って運動を始めた。
好きな服を着て、自信を持って自分の身体を見せられることが楽しくなった。
仕事に必要だからと自動車免許を取りに自動車学校に入った。
年明けの国家試験勉強の時期に備えて、年内に免許を取れるか不安だった。
平日の授業終わりや土日に自動車学校に通い詰め、
休む暇を取らずにいたら、疲労からメンタルも不安定になり再度人間不信に陥っていた。
仮免許も、卒業試験も、追加料金を払いたくなくて
一発合格できるか前日から気が気ではなかった。
でも全ての不安や心配をきっちり裏切るように、
私は一発ストレート合格をして12月末に免許を取得した。
そして冬、
私は一つの結論に辿り着いた。
夏、
確かに自分にはもう何も残っていないと思った。
しかし決して自分は無能でも魅力がないわけでもなかった。
実習も終わったし、免許も取れたし、国家試験も9割取れた。
体重を6キロ落として服のサイズも変わった。
これだけ結果をきっちり出している自分を褒めても良いと思った。
人間関係での変化があったとしても、
それはただ自分の周囲の環境が変わっているだけだ。
中心にいる自分の価値は揺らがない。
自分の才能も、大切な友人も、何も失ってなかった。
実はあの時しんどかった、と吐露した時、
そうだったんだ、と受け止めてくれる人は沢山いた。
私は、私の感情をちゃんと取り扱ってもいいんだ。
私の感情は、人からもちゃんと丁寧に取り扱ってもらえるんだ。
それに値するんだ。
今更ながら、当たり前のことがようやく腹落ちした。
この1年間の葛藤は、人として一皮剥けるための必要な経験だったのだろう。
元恋人には酷く傷付けられたと思っていたし、今でも時折思い出してしまうが
きっと私の人生の学びのための必要な出会いだったのだと思う。
そして今、もちろん新しい恋をしている。
23歳の私へ、24歳の私より
24歳の私が23歳の私に伝えたいのは、
失ったと思っていても、自分は何も失っていないということ。
むしろ、これまでの積み重ねが自分の中にも周りにもちゃんとあって、傷ついた時には救いがある。
過去の自分の行いが自分を助けてくれた。
頑張ってきてくれた私、ありがとう。
そして、恋愛もまだ失敗を繰り返しているけどその度に学びがあるということ。
学びを得て次に進めば、それはただの失敗ではなく、経験値になる。
振り子理論で考えれば、やはり別れがあれば出会いもある。
何よりも気をつけたいのは、一つの失敗や、悪かった経験を過度に一般化することだ。
信頼を踏み躙ってきた人がいるからと言って、異性全員を「いずれ裏切る」と決めつけるのは理論的にもおかしい。
マイナスに捉え過ぎないでいい。
始まる瞬間から、将来傷つく可能性を恐れないでいい。
きっと自分なら乗り越えられると信頼していい。
さて、
私がこれから足を踏み入れるソーシャルワークの世界は
白黒つけられないグレーな部分が大きい領域である。
自分自身とクライエントとの間で、境界線の引き方に悩むことばかりだろう。
仮説通りに進まないことばかりだろう。
でも、私は人を信じているから、人が好きだからこの道に足を踏み入れた。
1年間の学びの中で、必要最低限の専門的知識はもう身についた。
さあ、スタートラインに立った。
これからどんな自分になるかは未知数だ。
きっと、揺らぎは何度でも襲ってくるだろう。
しかし、これまで右に左にでっかく悩みの振り子を振りまくってきた私は、
人一倍三半規管が強いのは間違いない。
揺れたとしても大丈夫、また反対方向に振ればいいだけ。
ひとりの時間に悩むのはもう24年間やってきたから得意分野。
振っていく基礎体力も体幹もばっちりだ。
「支援者」としての肩書きなんて背負わなくていい。
そんな偉そうな大人のことが大嫌いだったはずだ。
自分も、日々思い悩む「当事者」として等身大で関わっていけばいい。
答えがないことも、一緒に考えて探していく。
『お悩みのプロ』の基礎体力でとことん向き合えばいい。
そして30歳の私へ、宿題です
ここからは24歳の私から、25歳…いや、30歳の私への宿題。
まず、諦めが悪いのは私の長所だけど、完璧を目指すのをやめよう。
完全無欠の人間なんていない。
自分にできること、できないことを知って、足りない部分は人に外注しよう。
そして自分は思ったより優秀っぽい。
自分の思う7割くらいの気合いで、十分いいパフォーマンスできるっぽい。
それでセーブした分余った力で、プライベートで二兎も三兎も追っかけてやろう。
仕事も恋愛も趣味も全部楽しんでる自分が一番好きだ。
大人げなく、40歳くらいになって後悔しないように今を全力で楽しむこと。
最後に、自分の悩みもちゃんと取り扱うこと。
つい「もう終わったことなんだけどね」って人に過去形で喋るのはやめよう。
悩み終わってなくていい。
解決できてなくていい。
それは全然汚点じゃない。
家族のことで悩んでてもいい。
恋愛で悩んでてもいい。
それが何の障害になる?
自分の悩みをゼロにして、完全無欠の透明人間にならないと支援者になれないと思い込まないで。
働いている「会社員」も、家に帰れば「父」や「母」という立場の当事者で、
学校にいる「生徒」も、家に帰れば「子供」という立場の当事者。
誰しもが複数の立場を持っていて、それぞれの当事者性を持っている。
少なくとも今の私は、「家族関係に悩む娘」で「福祉の道を勉強している学生」で「誰かの大切な友人」だ。
自分の中の、色んな立場の当事者性を無理やり抜き取って透明になろうとしなくていい。
色んな当事者性を、色を持ったままでいい。
透明な立場じゃないと、中立になれない?人を助ける立場にはなれない?
透明だったら、他の人の色と交わった時に何の変化も生まれない。
お互いに色を持ったもの同士だから、変化が起こる。
その色の混ざり具合や、予想もつかない化学変化を楽しまないと。
私の持っている色は何色なのか?
それをここから6年かけて、ちゃんと観察して見つけてください。
24歳*1の私より、愛を込めて。
30歳の私へ、宿題です。
最後に好きな歌貼っといていいですか(小声)
*1:今年2022年の夏で25歳だけど、まだ24歳なので許してください
「評価」をやめたい話【日記】【読書レビュー】『推し、燃ゆ』
お久しぶりです。
毎日色々やって充実して生きていたのですが、日々充実…?していると日記を書く行為からも遠ざかってしまって、記事を書くことも疎遠になってしまいました。
あとは開設したブログ用Twitterアカウントの方で日々雑感をたくさん投下しているので、余計にまとめてアウトプットすることから遠ざかっている気がします。
どうも家を出たくない日ってあるじゃないですか?
— 森@よく食べてよく寝る (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年2月23日
でもデミグラスソースとマヨネーズが切れてることに気がついて、それがないと献立が成り立たないことにも気がついて、やっぱり家を出たくなくて暴れたくなる日もあるんですよね
たった140文字でも、アウトプットしちゃうと結構脳内の言語化は一定数達成されるので「やったったで!!」と脳内ドーパミン出るんですよね(私調べ)
そんな中で今回なぜわざわざ記事書こうと思ったかという話になりますが、というのも
①色々と考えて対策して動いていたやりたい進路がひとつ選考に落ちて久々に結構凹んだ
②最近恋人とのやり取りで考えるところが多かった
③ここ数日で本を数冊読んでいて、文章に影響を受けたのでアウトプットしたくなった
という状況が重なったからですね。
一番直接的に私の創作欲を刺激したのはこの本です。
話題の本なので知ってる方も多いかと思いますが、今回はこちらの感想っぽいものを書きたいと思います。
私の所感としては、
この物語は「わたし」の話だと思わせる力があると思いました。
今の時代を生きる人間の感覚を鮮明に描いていて、
謎の気だるさや無力感が常にあって、息が浅いような感覚、
本当は現実世界で自分が持っているものはゼロではないのだけど何も持っていないと感じる気持ちなど、
そういった矛盾を多く孕んだリアルさがありました。
推しがいる人いない人関係なく共通するものが多いんじゃないかなと思います。
なので、「推し、燃ゆ」というタイトルで『自分には関係ない話だな〜』と思った方でも読んで欲しいなと思うんです。
鮮明さゆえに、現実世界の
「別に全ての話にオチやハッピーエンドがあるわけではない」
「真相が全て解明されるわけではない」
という特性も持ち合わせているので、読了後に重いと感じる人もいるかも知れません。
この本を読んだことで、別の世界線であり得たかも知れない別の「わたし」の人生を体験したので、私も今の私について記しておきたいなあと思いました。
感情を全て綺麗に整理して昇華させなくてもいい、そのまま書いていい、と背中を推してもらった気がしました。
これはTwitterでもちょっと前に書いたんですが(以下参照してください)
Twitterはそれぞれの幻覚や妄想を語る場でしかないと思ってるんですよ…
— 森@よく食べてよく寝る (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年2月5日
人間は各個人の目というレンズを通してこの現実世界を見てるわけなので、その人の認識してる事実には既にその人の解釈という名のレンズで光の屈折が加わってる状態なんですわ
純粋情報じゃないから、それはつまり幻覚なんですよ
人間がこの世界で見てるものって全部その人間の眼球の水晶体というレンズを通して見ているわけじゃないですか。
だから、もう人間は生まれ落ちた時からこの世界の「何も編集が加えられていない純粋な情報」なんて見てないと言えるんじゃないかと。
人間の見ているもの、考えているものは全てその人間個人単位の「妄想や幻想」と言えるんじゃないかと思うんです。
だからこそ、人がこの世に発信する情報や考えに貴賎はないと思うんですよね。
Twitterやってるとよく思うんですが、発信する情報に対して発信者の質によって価値がつけられてきている昨今の社会潮流がありますよね?
でもビジネスやマネー知識を発信する人が偉くて、日々食べた菓子パンの美味い不味いを発信する人は下らない…といったランク付け自体に意味を感じないんですよね。
それ全部みんなが投影している妄想だよ?と思います。
人間それぞれが見ている幻想を発信して共有して行くのが人生で、
その個人幻想に共感してくれる人が出てくれば、共同幻想になっていき、
それがより大きな規模になってくると社会 communityとなる…
というサイクルなんですよね。(私の中では)
最近それが顕著に現れているのがオンラインサロン文化だなーと思います。
それに加えて言いたいのですが、
今書いているこの考えは主に、私が大学で受けていたドイツ文学及び哲学の講義の内容からインスパイアされたものです。
私は今「私の考え」として世界にこうして発信しているわけですが、その考えの背景には数え切れないくらい色々なテクストで影響を与えた別の考えが存在しているので、
つまり「100%純粋で新鮮な考え」ってこの世に存在しないんじゃない?と思うんです。
だからこそ、情報の発信者に偉いとかいう立場の違いってなくない?と思うんですよね。
もちろん参考になる情報を発信してくれる人はいますが、その人だけが偉い!のではなくて、その人もたくさんの先人の情報を参照したりインスパイアされているのだから、
評価するのならこれまで受け継がれてきたプロセス部分であって、
それこそ人間の営みの尊さだろ・・・と感じている次第です。
というか、何でも「評価」するのって苦しくないですか?
私は苦しいです。
昔は(今も引きずっていますが)人を評価する側に回ることで優越感を自分に感じていました。
真っ先に評価する側に回ることで、自分が評価されこき下ろされて無能扱いされる可能性から逃げていたんだろうと思います。
今思うとこれっていじめっ子じゃん…と自分が怖いです。
それに評価するのが当たり前になっていると、自分のことすら常に評価してしまうので生きるのがしんどくなってしまうんですよね。
ちょっとした挫折、失敗に対してのマイナス評価がクソデカくなってしまう。
自己肯定感希薄人間としては マイナス評価=「自分が生きてていいと思える点」の減点 なので、
もうだめだ死のう…スイッチ入りがちなんですよね。笑
そう!やっぱり「評価」からの脱出が一番の人生の課題なんじゃないかと思っているわけです。
こんな風にグダグダと私も自分個人の幻想を文字をこねくり回して表現していることも、
評価しようとしたら
「自分語り乙」「拗らせ」など、低評価になるかも知れませんが…
うっせえ うっせえ うっせえわと。
(流行っているので言いたかった)
表現に貴賎はないので!
評価するという行為は本質的ではなく、後々自分の首を閉めてきて苦しいので!
縛られないことにしました。
『推し、燃ゆ』も、
その残酷なまでの鮮明な痛々しいくらいの文章が
私の背中を押してくれました。
たぶん現代版『罪と罰』入門…現代らしくふわっとサラッと読めるライト版って感じです。
本編と照らし合わせてもう少し語ってみたいと思います。
本編の「あたし」は、推しのことを「背骨」と評していますが
今日の「私」の「背骨」となるものは何なんだろうと考えてみました。
多分、
「わたし」というものを人生をかけて探りたい、試行錯誤したい、
個人の幻想であっても他人と共有したい、幻想どうしの境界線の限界に挑みたい、
という気持ちが私の生きるための「背骨」なんじゃないかなと思います。
私は生きるのが馬鹿みたいに下手くそなくせに、痛々しいくらいに他人に興味がある人間なんだなあと思います。
そして最後に、小さい頃に読んだ時から私の好きな詩と、最近好きな曲から引用して締めたいと思います。
ありがとうございました。
明日からの日々も自分の幻想と他人の幻想の間でもがこう。
- 「二十億光年の孤独」(『二十億光年の孤独』谷川俊太郎、1952年)
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
- 「夜天」 女王蜂(作詞作曲:薔薇園アヴ)
たとえば言葉の総てに力を失ったとしても
誰かのことを思う心に嘘も偽りもなく
ひたむきな美しさは切なさや儚さを越えて
呆れるほどに高く深く さあ、どこへだってゆける
(中略)
思い詰めてしまった夜の果てわたしたちは出逢い
持ち寄る孤独は星たちのように、胸に宿り
胸に宿し続ける
女王蜂 『夜天(STARRY NIGHT)』Official MV
これはどうでも良い呟き
これはどうでもいい呟きですが、
前職のマーケターやっていた時にGoogleアナリティクス良く見てたので
はてなブログのアクセス解析って、まじで雑感しか拾えないなと思って残念です。
もう少しどの参照元からアクセスが何件あるのか、見られたら記事の伸ばし方とかSNSも運用のやり方変わってくるし面白いのになあと思います。
そう言った場合は、はてなブログにGoogleアナリティクスとかタグ入れれば良いんですかね?(規約的に入れられるのか?分かりませんが)
他にアクセス解析に強いブログあるよーとか知ってる方教えてくれたら嬉しいです。
まあ収益化するつもりも毛頭ない趣味の与太ブログなので、このままでも良いんですけどね。
ということで、呟きでした。
おやすみなさい。
【覚書】専門智を頼ろう
こんばんは。
今少し急に思いついたので更新しています。
今日の記事で一番伝えたいのはタイトル通り「専門智に頼ろう!」ということです。
この言葉に始まり、この言葉に終わると思います。
というのも、さっきちょうどYouTubeでとある精神科医の方のチャンネルを見ておりまして
この方の解説とても分かりやすくて好きです(ただのファン故の宣伝)
うつ病とは違う? 適応障害について、症状から治療法まですべて説明します【精神科医・益田裕介/早稲田メンタルクリニック】
そして、私はネットのコンテンツは必ずコメント欄を見るのが趣味の変人なんですけど
(この間、バズったツイートのリプ欄絶対全部見るんだよねと言ったら、相方は『よく分からん』みたいなこと言ってました。みんな意外と見てないのかな?世の中はいっぱいいろんな人がおるなあと思うので楽しいです)
その見てた動画群のコメント欄でも、「こういったコメントがとても多いな」と思う明らかな傾向があったからなんですね。
で、そのコメント内容というのが、
「自分は現在うつ病(または、診断名はついておらずうつ状態)にあって、情報収集をしている」
そして、
「自分ではこういう状態だと思っているが、それでもどうしたら良いのか分からない」
「自分はこういう状態でこういうふうに苦しんでいます。アドバイスお願いします」
といったものが多くて。
そこから、コメントの傾向について私が考えた推論は以下です。
これが個人的にあんまり良くないなと思ったのでブログ更新の筆を取りました。
まあ、これまで私自身がこのブログを更新するときに
等身大の自分なりの考えを発信してきた立場で物申すのも非常に矛盾点が多く、申し訳ないのですが
やっぱり、情報を集めすぎるのも良くないんですよ。
なぜなら、ネット上の情報で言えば、
- まず情報が断片的である
→本来は考察に際して重要な部分が欠けている情報の可能性があります。
- 出典が明らかでない(特に、まとめ記事・まとめ動画などは、誰かのコピーのコピーのコピー(…以下、無限ループ)だったりすることが多いです)
→情報の信憑性が低い、医学的に根拠がない可能性があります。
パッと挙げただけでも上記のような欠点がありますね。
また、本や専門医発信の情報から手に入れた情報であっても、
- その情報の活かし方が適切ではない可能性がある
- 判断を下すにあたっては、適切ではない思いこみ(認知の歪み)がある可能性がある
上記の可能性はあるわけで、自分自身の判断力や認識に100%の自信を持つことは危険だと考えます。
コメント欄を見ていて私が気づいたのも、やはりコメントした方が他人であって、
その状況に私がまっったく関わっていない他人事であるからこそ、フラットな視点で物を見られたからだと思います。
なので、やはり何千ケースも似たような適応障害であったり鬱病であったりの患者さんを見ているお医者さんに頼るのが有益だと私は考えます。
”専門性”ってのは、世の中に「やっぱこれ必要やなあ」と思われたからこそ生まれてきた枠組みなので、
その専門的な枠組みがあるってことは、すなわち何らかの重要な役割を社会に対して発揮していると考えて良いと思います。信じて良いと思います。
なので、やはり付け焼き刃の知識で変に考え込んで「自分病気なのかな、死ぬのかな」とか「自分ってやっぱ甘えた人間かも、死ぬか」とか悩んでしまうよりも
「ちょっとわかんねーわ、たすけて!あとは任した!」と放り投げるくらいの感覚で行ってしまう方が良いと思います。
病院じゃなくて、何かしらの支援受けるときも、似たような感じですね。
私はこれからソーシャルワーカーになろうかなと思っているのですが、案外専門職の人に頼った方が解決する問題って多いもんだと思いますよ。はい。
ここでこの記事を読み終わるのはちょっと待ってくれ!
で、今回伝えたかったテーマについて解説が終わったところで最後に一言付け加えたいと思うのですが
こう言った記事を読まれた時、うつ状態にいらっしゃる方だと「自分への攻撃や否定」だと感じる方も多いかと思います。
自分の行動について「それはあまり良くない」と否定される時、発信者としてはあくまで行動の面のみを否定しているコミュニケーションなのですが、
受信側は行動への否定と自己の人格への否定を同じのものとして捉えやすいんですね。
経験則でめちゃくちゃその気持ちわかります。。
でも、今回声を大にして言いたいのは、
本記事は、読まれた方や、実際に今不安でいろいろ調べている方への否定をしたいのではなくて
専門智を頼ってみませんか?という提案であるということです。
GoToトラベルじゃなくて、GoToホスピタルやってみませんか?って話です。
(上手いこと言えていないなこれ)
そして、(先程までの文章の中では「信頼性に欠ける」などと評していましたが)こう言った私のような未熟な人間の書くブログなども、有益ではないかとも考えています。
だから、今こうして私の記事を読んで下さっている方の行動も100%無駄無駄無駄ァ!とは言えないのです!そう!読んでくださってありがとうございます!
病状の治療という形ではあまり有益ではないかもしれませんが、情緒的にはなんらかの共感だったり安心感があるんじゃないかと思うのです。
別角度からのアプローチですね!
ここからは少し雑談にお付き合い頂きたいのですが、(すでに雑談だと思う方はすみません)
私は、人って、ただの物と物を結びつけて意味を見出しがる生き物だと思うんですよね。
無機質な物質にも命を見出そう(与えよう?)とするし、
ほんとは無関係な出来事なんだけど、結びつけることで、物語を見出して、自分の中に納得だったり、何かしらの感情を見つけようとする。
これを私は「人間は物語的な生き物である」とかカッコつけて呼びたいんですけど
というのも、この動画見てもらえればちょっとわかると思うのですが
人間はエピソード記憶ってものを持ってますよね。
これも、やっぱり脳の構造から見ても人間って物語的生き物じゃないかい!と私は思い至る要因の一つなのですが・・・まあ長い話は置いといて、
そしたら、こう言ったブログに出会うのも、記事を読むのも、本当はただのランダムな乱数のなかで出会った偶然でしかないかもしれないけど、
何かしらの意味を読者の中に見出すのも全然良いと思うんですよ。
そして見出すその意味は、人によってなんでも良いと思うんですよ。
わかるわ〜っていう共感でもいいし、自分よりもっとひどい状況の人いて安心したわっていう安心でもいい。心の中で何を考えようと自由なんです。
で、提案なんですけど、よかったらその心の動きを他のことでもやってみると良いんじゃないかなと思います。
中でも、物語を読むのって結構良いと思うんです。
アニメでも漫画でも、映画でも、小説でも、そこで生み出される話の中に没入していくと、どこかで共感とか何かしらの心の動きが生まれると思うんですよ。
で、小説とかの何が良いかって、その中で主人公とか登場人物たち、もしくは地の文が「今何を感じているか」を描写してくれるんですよね!
それがあるから、「あ、もしかして自分が考えてたのもこういうことだったのか」と合点がいくことも多々あるんですよ。
スッと自分の中に落ちてくることもあるんです。
だから、(もちろん学術書とか雑学の本も良いんですけど、)何か物語に触れてみてほしいなと思うんです。
そして、その一歩目が、私のブログだったら嬉しいなあとか思っています。笑
長々と今回の記事もお付き合い頂きありがとうございました!
人に頼るのも悪くないですよ。
適度にサボっていきましょう。
では。
【お知らせ】httpsに切り替えます/Twitter始めます
続けてすみません。
2件お知らせがあって、
#メンヘラさんと仲良くなりたい
— うつだけど成人 (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年1月12日
悩む=自分の「不快」という感情の発露
→その自分を一旦全肯定しよ!という話です。
ーーーーーーー
はてなブログに投稿しました #はてなブログ
最近の悩みについて話すよ【思考メモ】 - うつだけど成人していいですか。 https://t.co/X9UsLZGWU9
1件目は、
ブログのセキュリティ上の問題からhttpsに切り替えるのですが、
そうするとこれまでのFacebookなどのSNSへのシェア数などがリセットされるそうです。
もともと弱小ブログですが、まあ記事の拡散数とかはあまり気にしないでくださいという話です。
2件目は、
ものは試したろうと思ったのでTwitter始めました。
記事更新とかのツイート、あとは日々考えてることのぼやきを投稿しようと思います。
なぜTwitter始めようかと思ったかというと、
プライベートでは、Twitterを確か2010年からかれこれ10年近くやってますが、今は多数と繋がろうとかあまり思っていないので暫く鍵付きアカウントでやっていたんですね。
でも鍵付きアカウントで、もともとのフォロワーに記事更新ツイートしても拡散されないので(リツイートできないので)ブログを似たような人に沢山見て欲しいという純粋な拡散欲求がそろそろ満たせなくなってきたというのが理由です。
あと、普段あれこれ考えてることはプライベートアカウント内では垂れ流しなんですが、そろそろ世間に一旦出してみて反応を伺ってみようじゃない…と思ったので。
デジタルマーケティングかじってはいましたが、アカウント育てるのは初めての試みなんで、まあ一般人のアカウントとして気まぐれにチェックしていただければ幸いです。
オタクやってる時はフォロワー増やすの得意なんですけど、こういうブログ書く系のアカウントでやるときはどうやって人と繋がればええねん…と、タグ選びで難関ぶち当たってます。笑
筆者名としてハンドルネームもつけたほうが、多分個人の方とも繋がりやすいですよね〜
ハンドルネーム募集。
それではお知らせ記事はこの辺で。
閲覧ありがとうございました。
おやすみなさい。

