23歳の私へ、24歳の私より/そして30歳の私へ、宿題です
1年ぶりにブログを開いて、ようやく文字をしたためる覚悟が決まった。
いつにも増して、とてつもなく個人的な出来事を振り返った随筆文になるだろう。
1年前の自分を思う
1年前の23歳の私は、自分なりに大きな決断をして新しい道に足を踏み入れて学舎の扉を叩き、同時に新しい愛に出会って希望に満ちていた。
もちろん、不安もなかった訳ではない。
新しい決断には不安がつきものだ。
「資格試験に合格できなかったらどうしよう」
「恋人と別れる日が来たらどうしよう」
そんな、まだ起こってもいない未来の到来をなぜか予感しているような気持ちになって一人不安になっていた。
その予感は、図らずしも当たっているものもあった。
1年前の私に伝えるには酷かもしれない現実があるが、
正しく伝えたいのは、同時に希望もあるということ。
人生には、常に光と闇が共存しているのかもしれない。
「浮き沈みがある」と聞くとなんだかマイナスに聞こえるが、
「振り子は、右に振れたらもちろん左にも振れるよね」と聞けば、なるほど、そうだな。と思えるだろう。
波がなんで上下だけだと思い込んでいるのか。
左右に揺れることもあるだろう。
そんな人間の認知の適当さ、思い込みのあっけなさを実感する1年でもあった。
一つの目標達成という経験
さて、私は精神保健福祉士という国家資格を得るため去年の春、専門学校に入学した。
1年間、正確には4月からの10ヶ月間で、本来福祉系の4年制大学で学ぶ内容を凝縮して詰め込んできた。
こんな量の勉強を短期間で詰め込んで、果たして自分はちゃんと合格できるのだろうか、と不安な日の方が多かった。
理論的に精神疾患についての知識や相談援助技術を学び、演習の時間に実践し磨いてきた。
でも大丈夫、
腐らずに頑張ってきた、紛れもない私自身の力で
国家試験本番で9割の得点を獲得できたのだ。
常に自分を否定的に評価してしまう自分も、ついにこうして数字で結果が出てしまうと
認めざるを得ないだろう。
自分が努力をできる人間であること、そして結果を出したということを。
自己採点の結果が分かった日、
私は、一人泣いた。
右へ左へ
もちろん、国家試験本番まで紆余曲折はあった。
振り子が左右に振れまくっていた。
春、
新しい環境へ適応する大変さ
勉強への焦り
いろいろなことで心が揺らいで、恋人にもバランスよく余裕を持って接することができなくなっていた。
自分の不安や焦りを相手に吐露することは出来ず、
恋人の就職活動などを明るく励ますことに終始していた。
初夏、
家族とのいざこざが予期せず起こり、初めて人との電話で号泣した。
感情的に揺らぎやすい自分のことも自覚していた。
そんな中で、一番信頼していたはずの恋人から急に別れを切り出され
またみっともなく号泣した。
久々に嗚咽が酷すぎて上手く息継ぎもできなかった。
感情が揺らぎやすい私のことを、これからも好きでいる自信がなくなったこと
お互いに一緒にいて幸せなのか疑問に思ったこと
それらを理由に、急に距離を置きたいと言い出されても到底納得はできなかった。
やっぱり私は感情的で重い女と言われて再度振られるのか。
と何度自嘲したのか、もう覚えていない。
おそらく父親からの愛情不足ゆえに恋人に代役を求めていたことを指摘され、
そんな感情的に揺らぎやすいところが前から嫌だったと言われたことは
今でも時折思い出すくらいに、私の心を傷つけた。
嫌なところがあったら、できる限り直したいから言ってね。
そう前から伝えていた私の努力はなんだったのだろうか。
特に不満はないかな、と言っていた当時の彼は嘘つきだったのだろうか。
過去のやり取りまで否定されるような、そんな汚い終わり方を選ぶような人だったんだろうか。
賢くて、議論もできる彼となら、たとえ問題が起こっても話し合いで建設的に解決できると思ったのに
自分の直感は間違っていたのだろうか。
最後に聞いた電話越しの彼の冷たい反応や、
友達に戻ろう、と自分勝手なことを言った後の彼からの冷めたLINEの返信を見るたび
胸が酷く苦しくなって、常に吐きそうだった。
久々に自分の心を開いて、マイナスな感情も共有していいかなと信頼していた人からの裏切りは
思った以上にキツかった。
常に胸が苦しくて吐きそうだからご飯を食べる気にもなれず、
家の中のどこにいても、彼と一緒にいた時間を思い出してしまい
思い出よりも広い湯船に浸かりながら泣いた。
ベッドに横になっていても、自分の孤独を呪って泣いた。
夏、
気がついたら5キロ痩せていた。
傷心、しかし…
不幸な自分を呪っていても、時間は休ませてはくれなかった。
如何せん今年は受験資格獲得のために1年みっちりとスケジュールが詰まっていた。
ある意味、この忙しい時間の流れが失恋を忘れさせてくれた。
人間にとって、一番毒なのは暇な時間かもしれない。
地域の福祉施設へ実習に行った。
いろんな人と出会い、会話をした。
いろんな人が日々生きて、ただ暮らしているという実感を得ることは
傷ついた心を何より癒した。
たった10数日しか関わっていない私との別れを惜しみ、
感謝を伝えてくれた人もいた。
人生において、
傷つくのは大抵人との関わりの中であるけれど
同時に、癒されるのも人との関わりの中なのだ。
秋、
就職先が決まった。
少し余裕が出てきて周りの人に興味を向けて遊びの時間も持とうと思い始めた。
好きだったファッションをまた楽しみたくなって髪の毛を染めた。
痩せたのをきっかけに、体を絞ろうと思って運動を始めた。
好きな服を着て、自信を持って自分の身体を見せられることが楽しくなった。
仕事に必要だからと自動車免許を取りに自動車学校に入った。
年明けの国家試験勉強の時期に備えて、年内に免許を取れるか不安だった。
平日の授業終わりや土日に自動車学校に通い詰め、
休む暇を取らずにいたら、疲労からメンタルも不安定になり再度人間不信に陥っていた。
仮免許も、卒業試験も、追加料金を払いたくなくて
一発合格できるか前日から気が気ではなかった。
でも全ての不安や心配をきっちり裏切るように、
私は一発ストレート合格をして12月末に免許を取得した。
そして冬、
私は一つの結論に辿り着いた。
夏、
確かに自分にはもう何も残っていないと思った。
しかし決して自分は無能でも魅力がないわけでもなかった。
実習も終わったし、免許も取れたし、国家試験も9割取れた。
体重を6キロ落として服のサイズも変わった。
これだけ結果をきっちり出している自分を褒めても良いと思った。
人間関係での変化があったとしても、
それはただ自分の周囲の環境が変わっているだけだ。
中心にいる自分の価値は揺らがない。
自分の才能も、大切な友人も、何も失ってなかった。
実はあの時しんどかった、と吐露した時、
そうだったんだ、と受け止めてくれる人は沢山いた。
私は、私の感情をちゃんと取り扱ってもいいんだ。
私の感情は、人からもちゃんと丁寧に取り扱ってもらえるんだ。
それに値するんだ。
今更ながら、当たり前のことがようやく腹落ちした。
この1年間の葛藤は、人として一皮剥けるための必要な経験だったのだろう。
元恋人には酷く傷付けられたと思っていたし、今でも時折思い出してしまうが
きっと私の人生の学びのための必要な出会いだったのだと思う。
そして今、もちろん新しい恋をしている。
23歳の私へ、24歳の私より
24歳の私が23歳の私に伝えたいのは、
失ったと思っていても、自分は何も失っていないということ。
むしろ、これまでの積み重ねが自分の中にも周りにもちゃんとあって、傷ついた時には救いがある。
過去の自分の行いが自分を助けてくれた。
頑張ってきてくれた私、ありがとう。
そして、恋愛もまだ失敗を繰り返しているけどその度に学びがあるということ。
学びを得て次に進めば、それはただの失敗ではなく、経験値になる。
振り子理論で考えれば、やはり別れがあれば出会いもある。
何よりも気をつけたいのは、一つの失敗や、悪かった経験を過度に一般化することだ。
信頼を踏み躙ってきた人がいるからと言って、異性全員を「いずれ裏切る」と決めつけるのは理論的にもおかしい。
マイナスに捉え過ぎないでいい。
始まる瞬間から、将来傷つく可能性を恐れないでいい。
きっと自分なら乗り越えられると信頼していい。
さて、
私がこれから足を踏み入れるソーシャルワークの世界は
白黒つけられないグレーな部分が大きい領域である。
自分自身とクライエントとの間で、境界線の引き方に悩むことばかりだろう。
仮説通りに進まないことばかりだろう。
でも、私は人を信じているから、人が好きだからこの道に足を踏み入れた。
1年間の学びの中で、必要最低限の専門的知識はもう身についた。
さあ、スタートラインに立った。
これからどんな自分になるかは未知数だ。
きっと、揺らぎは何度でも襲ってくるだろう。
しかし、これまで右に左にでっかく悩みの振り子を振りまくってきた私は、
人一倍三半規管が強いのは間違いない。
揺れたとしても大丈夫、また反対方向に振ればいいだけ。
ひとりの時間に悩むのはもう24年間やってきたから得意分野。
振っていく基礎体力も体幹もばっちりだ。
「支援者」としての肩書きなんて背負わなくていい。
そんな偉そうな大人のことが大嫌いだったはずだ。
自分も、日々思い悩む「当事者」として等身大で関わっていけばいい。
答えがないことも、一緒に考えて探していく。
『お悩みのプロ』の基礎体力でとことん向き合えばいい。
そして30歳の私へ、宿題です
ここからは24歳の私から、25歳…いや、30歳の私への宿題。
まず、諦めが悪いのは私の長所だけど、完璧を目指すのをやめよう。
完全無欠の人間なんていない。
自分にできること、できないことを知って、足りない部分は人に外注しよう。
そして自分は思ったより優秀っぽい。
自分の思う7割くらいの気合いで、十分いいパフォーマンスできるっぽい。
それでセーブした分余った力で、プライベートで二兎も三兎も追っかけてやろう。
仕事も恋愛も趣味も全部楽しんでる自分が一番好きだ。
大人げなく、40歳くらいになって後悔しないように今を全力で楽しむこと。
最後に、自分の悩みもちゃんと取り扱うこと。
つい「もう終わったことなんだけどね」って人に過去形で喋るのはやめよう。
悩み終わってなくていい。
解決できてなくていい。
それは全然汚点じゃない。
家族のことで悩んでてもいい。
恋愛で悩んでてもいい。
それが何の障害になる?
自分の悩みをゼロにして、完全無欠の透明人間にならないと支援者になれないと思い込まないで。
働いている「会社員」も、家に帰れば「父」や「母」という立場の当事者で、
学校にいる「生徒」も、家に帰れば「子供」という立場の当事者。
誰しもが複数の立場を持っていて、それぞれの当事者性を持っている。
少なくとも今の私は、「家族関係に悩む娘」で「福祉の道を勉強している学生」で「誰かの大切な友人」だ。
自分の中の、色んな立場の当事者性を無理やり抜き取って透明になろうとしなくていい。
色んな当事者性を、色を持ったままでいい。
透明な立場じゃないと、中立になれない?人を助ける立場にはなれない?
透明だったら、他の人の色と交わった時に何の変化も生まれない。
お互いに色を持ったもの同士だから、変化が起こる。
その色の混ざり具合や、予想もつかない化学変化を楽しまないと。
私の持っている色は何色なのか?
それをここから6年かけて、ちゃんと観察して見つけてください。
24歳*1の私より、愛を込めて。
30歳の私へ、宿題です。
最後に好きな歌貼っといていいですか(小声)
*1:今年2022年の夏で25歳だけど、まだ24歳なので許してください
「評価」をやめたい話【日記】【読書レビュー】『推し、燃ゆ』
お久しぶりです。
毎日色々やって充実して生きていたのですが、日々充実…?していると日記を書く行為からも遠ざかってしまって、記事を書くことも疎遠になってしまいました。
あとは開設したブログ用Twitterアカウントの方で日々雑感をたくさん投下しているので、余計にまとめてアウトプットすることから遠ざかっている気がします。
どうも家を出たくない日ってあるじゃないですか?
— 森@よく食べてよく寝る (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年2月23日
でもデミグラスソースとマヨネーズが切れてることに気がついて、それがないと献立が成り立たないことにも気がついて、やっぱり家を出たくなくて暴れたくなる日もあるんですよね
たった140文字でも、アウトプットしちゃうと結構脳内の言語化は一定数達成されるので「やったったで!!」と脳内ドーパミン出るんですよね(私調べ)
そんな中で今回なぜわざわざ記事書こうと思ったかという話になりますが、というのも
①色々と考えて対策して動いていたやりたい進路がひとつ選考に落ちて久々に結構凹んだ
②最近恋人とのやり取りで考えるところが多かった
③ここ数日で本を数冊読んでいて、文章に影響を受けたのでアウトプットしたくなった
という状況が重なったからですね。
一番直接的に私の創作欲を刺激したのはこの本です。
話題の本なので知ってる方も多いかと思いますが、今回はこちらの感想っぽいものを書きたいと思います。
私の所感としては、
この物語は「わたし」の話だと思わせる力があると思いました。
今の時代を生きる人間の感覚を鮮明に描いていて、
謎の気だるさや無力感が常にあって、息が浅いような感覚、
本当は現実世界で自分が持っているものはゼロではないのだけど何も持っていないと感じる気持ちなど、
そういった矛盾を多く孕んだリアルさがありました。
推しがいる人いない人関係なく共通するものが多いんじゃないかなと思います。
なので、「推し、燃ゆ」というタイトルで『自分には関係ない話だな〜』と思った方でも読んで欲しいなと思うんです。
鮮明さゆえに、現実世界の
「別に全ての話にオチやハッピーエンドがあるわけではない」
「真相が全て解明されるわけではない」
という特性も持ち合わせているので、読了後に重いと感じる人もいるかも知れません。
この本を読んだことで、別の世界線であり得たかも知れない別の「わたし」の人生を体験したので、私も今の私について記しておきたいなあと思いました。
感情を全て綺麗に整理して昇華させなくてもいい、そのまま書いていい、と背中を推してもらった気がしました。
これはTwitterでもちょっと前に書いたんですが(以下参照してください)
Twitterはそれぞれの幻覚や妄想を語る場でしかないと思ってるんですよ…
— 森@よく食べてよく寝る (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年2月5日
人間は各個人の目というレンズを通してこの現実世界を見てるわけなので、その人の認識してる事実には既にその人の解釈という名のレンズで光の屈折が加わってる状態なんですわ
純粋情報じゃないから、それはつまり幻覚なんですよ
人間がこの世界で見てるものって全部その人間の眼球の水晶体というレンズを通して見ているわけじゃないですか。
だから、もう人間は生まれ落ちた時からこの世界の「何も編集が加えられていない純粋な情報」なんて見てないと言えるんじゃないかと。
人間の見ているもの、考えているものは全てその人間個人単位の「妄想や幻想」と言えるんじゃないかと思うんです。
だからこそ、人がこの世に発信する情報や考えに貴賎はないと思うんですよね。
Twitterやってるとよく思うんですが、発信する情報に対して発信者の質によって価値がつけられてきている昨今の社会潮流がありますよね?
でもビジネスやマネー知識を発信する人が偉くて、日々食べた菓子パンの美味い不味いを発信する人は下らない…といったランク付け自体に意味を感じないんですよね。
それ全部みんなが投影している妄想だよ?と思います。
人間それぞれが見ている幻想を発信して共有して行くのが人生で、
その個人幻想に共感してくれる人が出てくれば、共同幻想になっていき、
それがより大きな規模になってくると社会 communityとなる…
というサイクルなんですよね。(私の中では)
最近それが顕著に現れているのがオンラインサロン文化だなーと思います。
それに加えて言いたいのですが、
今書いているこの考えは主に、私が大学で受けていたドイツ文学及び哲学の講義の内容からインスパイアされたものです。
私は今「私の考え」として世界にこうして発信しているわけですが、その考えの背景には数え切れないくらい色々なテクストで影響を与えた別の考えが存在しているので、
つまり「100%純粋で新鮮な考え」ってこの世に存在しないんじゃない?と思うんです。
だからこそ、情報の発信者に偉いとかいう立場の違いってなくない?と思うんですよね。
もちろん参考になる情報を発信してくれる人はいますが、その人だけが偉い!のではなくて、その人もたくさんの先人の情報を参照したりインスパイアされているのだから、
評価するのならこれまで受け継がれてきたプロセス部分であって、
それこそ人間の営みの尊さだろ・・・と感じている次第です。
というか、何でも「評価」するのって苦しくないですか?
私は苦しいです。
昔は(今も引きずっていますが)人を評価する側に回ることで優越感を自分に感じていました。
真っ先に評価する側に回ることで、自分が評価されこき下ろされて無能扱いされる可能性から逃げていたんだろうと思います。
今思うとこれっていじめっ子じゃん…と自分が怖いです。
それに評価するのが当たり前になっていると、自分のことすら常に評価してしまうので生きるのがしんどくなってしまうんですよね。
ちょっとした挫折、失敗に対してのマイナス評価がクソデカくなってしまう。
自己肯定感希薄人間としては マイナス評価=「自分が生きてていいと思える点」の減点 なので、
もうだめだ死のう…スイッチ入りがちなんですよね。笑
そう!やっぱり「評価」からの脱出が一番の人生の課題なんじゃないかと思っているわけです。
こんな風にグダグダと私も自分個人の幻想を文字をこねくり回して表現していることも、
評価しようとしたら
「自分語り乙」「拗らせ」など、低評価になるかも知れませんが…
うっせえ うっせえ うっせえわと。
(流行っているので言いたかった)
表現に貴賎はないので!
評価するという行為は本質的ではなく、後々自分の首を閉めてきて苦しいので!
縛られないことにしました。
『推し、燃ゆ』も、
その残酷なまでの鮮明な痛々しいくらいの文章が
私の背中を押してくれました。
たぶん現代版『罪と罰』入門…現代らしくふわっとサラッと読めるライト版って感じです。
本編と照らし合わせてもう少し語ってみたいと思います。
本編の「あたし」は、推しのことを「背骨」と評していますが
今日の「私」の「背骨」となるものは何なんだろうと考えてみました。
多分、
「わたし」というものを人生をかけて探りたい、試行錯誤したい、
個人の幻想であっても他人と共有したい、幻想どうしの境界線の限界に挑みたい、
という気持ちが私の生きるための「背骨」なんじゃないかなと思います。
私は生きるのが馬鹿みたいに下手くそなくせに、痛々しいくらいに他人に興味がある人間なんだなあと思います。
そして最後に、小さい頃に読んだ時から私の好きな詩と、最近好きな曲から引用して締めたいと思います。
ありがとうございました。
明日からの日々も自分の幻想と他人の幻想の間でもがこう。
- 「二十億光年の孤独」(『二十億光年の孤独』谷川俊太郎、1952年)
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
- 「夜天」 女王蜂(作詞作曲:薔薇園アヴ)
たとえば言葉の総てに力を失ったとしても
誰かのことを思う心に嘘も偽りもなく
ひたむきな美しさは切なさや儚さを越えて
呆れるほどに高く深く さあ、どこへだってゆける
(中略)
思い詰めてしまった夜の果てわたしたちは出逢い
持ち寄る孤独は星たちのように、胸に宿り
胸に宿し続ける
女王蜂 『夜天(STARRY NIGHT)』Official MV
これはどうでも良い呟き
これはどうでもいい呟きですが、
前職のマーケターやっていた時にGoogleアナリティクス良く見てたので
はてなブログのアクセス解析って、まじで雑感しか拾えないなと思って残念です。
もう少しどの参照元からアクセスが何件あるのか、見られたら記事の伸ばし方とかSNSも運用のやり方変わってくるし面白いのになあと思います。
そう言った場合は、はてなブログにGoogleアナリティクスとかタグ入れれば良いんですかね?(規約的に入れられるのか?分かりませんが)
他にアクセス解析に強いブログあるよーとか知ってる方教えてくれたら嬉しいです。
まあ収益化するつもりも毛頭ない趣味の与太ブログなので、このままでも良いんですけどね。
ということで、呟きでした。
おやすみなさい。
【覚書】専門智を頼ろう
こんばんは。
今少し急に思いついたので更新しています。
今日の記事で一番伝えたいのはタイトル通り「専門智に頼ろう!」ということです。
この言葉に始まり、この言葉に終わると思います。
というのも、さっきちょうどYouTubeでとある精神科医の方のチャンネルを見ておりまして
この方の解説とても分かりやすくて好きです(ただのファン故の宣伝)
うつ病とは違う? 適応障害について、症状から治療法まですべて説明します【精神科医・益田裕介/早稲田メンタルクリニック】
そして、私はネットのコンテンツは必ずコメント欄を見るのが趣味の変人なんですけど
(この間、バズったツイートのリプ欄絶対全部見るんだよねと言ったら、相方は『よく分からん』みたいなこと言ってました。みんな意外と見てないのかな?世の中はいっぱいいろんな人がおるなあと思うので楽しいです)
その見てた動画群のコメント欄でも、「こういったコメントがとても多いな」と思う明らかな傾向があったからなんですね。
で、そのコメント内容というのが、
「自分は現在うつ病(または、診断名はついておらずうつ状態)にあって、情報収集をしている」
そして、
「自分ではこういう状態だと思っているが、それでもどうしたら良いのか分からない」
「自分はこういう状態でこういうふうに苦しんでいます。アドバイスお願いします」
といったものが多くて。
そこから、コメントの傾向について私が考えた推論は以下です。
これが個人的にあんまり良くないなと思ったのでブログ更新の筆を取りました。
まあ、これまで私自身がこのブログを更新するときに
等身大の自分なりの考えを発信してきた立場で物申すのも非常に矛盾点が多く、申し訳ないのですが
やっぱり、情報を集めすぎるのも良くないんですよ。
なぜなら、ネット上の情報で言えば、
- まず情報が断片的である
→本来は考察に際して重要な部分が欠けている情報の可能性があります。
- 出典が明らかでない(特に、まとめ記事・まとめ動画などは、誰かのコピーのコピーのコピー(…以下、無限ループ)だったりすることが多いです)
→情報の信憑性が低い、医学的に根拠がない可能性があります。
パッと挙げただけでも上記のような欠点がありますね。
また、本や専門医発信の情報から手に入れた情報であっても、
- その情報の活かし方が適切ではない可能性がある
- 判断を下すにあたっては、適切ではない思いこみ(認知の歪み)がある可能性がある
上記の可能性はあるわけで、自分自身の判断力や認識に100%の自信を持つことは危険だと考えます。
コメント欄を見ていて私が気づいたのも、やはりコメントした方が他人であって、
その状況に私がまっったく関わっていない他人事であるからこそ、フラットな視点で物を見られたからだと思います。
なので、やはり何千ケースも似たような適応障害であったり鬱病であったりの患者さんを見ているお医者さんに頼るのが有益だと私は考えます。
”専門性”ってのは、世の中に「やっぱこれ必要やなあ」と思われたからこそ生まれてきた枠組みなので、
その専門的な枠組みがあるってことは、すなわち何らかの重要な役割を社会に対して発揮していると考えて良いと思います。信じて良いと思います。
なので、やはり付け焼き刃の知識で変に考え込んで「自分病気なのかな、死ぬのかな」とか「自分ってやっぱ甘えた人間かも、死ぬか」とか悩んでしまうよりも
「ちょっとわかんねーわ、たすけて!あとは任した!」と放り投げるくらいの感覚で行ってしまう方が良いと思います。
病院じゃなくて、何かしらの支援受けるときも、似たような感じですね。
私はこれからソーシャルワーカーになろうかなと思っているのですが、案外専門職の人に頼った方が解決する問題って多いもんだと思いますよ。はい。
ここでこの記事を読み終わるのはちょっと待ってくれ!
で、今回伝えたかったテーマについて解説が終わったところで最後に一言付け加えたいと思うのですが
こう言った記事を読まれた時、うつ状態にいらっしゃる方だと「自分への攻撃や否定」だと感じる方も多いかと思います。
自分の行動について「それはあまり良くない」と否定される時、発信者としてはあくまで行動の面のみを否定しているコミュニケーションなのですが、
受信側は行動への否定と自己の人格への否定を同じのものとして捉えやすいんですね。
経験則でめちゃくちゃその気持ちわかります。。
でも、今回声を大にして言いたいのは、
本記事は、読まれた方や、実際に今不安でいろいろ調べている方への否定をしたいのではなくて
専門智を頼ってみませんか?という提案であるということです。
GoToトラベルじゃなくて、GoToホスピタルやってみませんか?って話です。
(上手いこと言えていないなこれ)
そして、(先程までの文章の中では「信頼性に欠ける」などと評していましたが)こう言った私のような未熟な人間の書くブログなども、有益ではないかとも考えています。
だから、今こうして私の記事を読んで下さっている方の行動も100%無駄無駄無駄ァ!とは言えないのです!そう!読んでくださってありがとうございます!
病状の治療という形ではあまり有益ではないかもしれませんが、情緒的にはなんらかの共感だったり安心感があるんじゃないかと思うのです。
別角度からのアプローチですね!
ここからは少し雑談にお付き合い頂きたいのですが、(すでに雑談だと思う方はすみません)
私は、人って、ただの物と物を結びつけて意味を見出しがる生き物だと思うんですよね。
無機質な物質にも命を見出そう(与えよう?)とするし、
ほんとは無関係な出来事なんだけど、結びつけることで、物語を見出して、自分の中に納得だったり、何かしらの感情を見つけようとする。
これを私は「人間は物語的な生き物である」とかカッコつけて呼びたいんですけど
というのも、この動画見てもらえればちょっとわかると思うのですが
人間はエピソード記憶ってものを持ってますよね。
これも、やっぱり脳の構造から見ても人間って物語的生き物じゃないかい!と私は思い至る要因の一つなのですが・・・まあ長い話は置いといて、
そしたら、こう言ったブログに出会うのも、記事を読むのも、本当はただのランダムな乱数のなかで出会った偶然でしかないかもしれないけど、
何かしらの意味を読者の中に見出すのも全然良いと思うんですよ。
そして見出すその意味は、人によってなんでも良いと思うんですよ。
わかるわ〜っていう共感でもいいし、自分よりもっとひどい状況の人いて安心したわっていう安心でもいい。心の中で何を考えようと自由なんです。
で、提案なんですけど、よかったらその心の動きを他のことでもやってみると良いんじゃないかなと思います。
中でも、物語を読むのって結構良いと思うんです。
アニメでも漫画でも、映画でも、小説でも、そこで生み出される話の中に没入していくと、どこかで共感とか何かしらの心の動きが生まれると思うんですよ。
で、小説とかの何が良いかって、その中で主人公とか登場人物たち、もしくは地の文が「今何を感じているか」を描写してくれるんですよね!
それがあるから、「あ、もしかして自分が考えてたのもこういうことだったのか」と合点がいくことも多々あるんですよ。
スッと自分の中に落ちてくることもあるんです。
だから、(もちろん学術書とか雑学の本も良いんですけど、)何か物語に触れてみてほしいなと思うんです。
そして、その一歩目が、私のブログだったら嬉しいなあとか思っています。笑
長々と今回の記事もお付き合い頂きありがとうございました!
人に頼るのも悪くないですよ。
適度にサボっていきましょう。
では。
【お知らせ】httpsに切り替えます/Twitter始めます
続けてすみません。
2件お知らせがあって、
#メンヘラさんと仲良くなりたい
— うつだけど成人 (@Wqaa5NlqJuXXlfy) 2021年1月12日
悩む=自分の「不快」という感情の発露
→その自分を一旦全肯定しよ!という話です。
ーーーーーーー
はてなブログに投稿しました #はてなブログ
最近の悩みについて話すよ【思考メモ】 - うつだけど成人していいですか。 https://t.co/X9UsLZGWU9
1件目は、
ブログのセキュリティ上の問題からhttpsに切り替えるのですが、
そうするとこれまでのFacebookなどのSNSへのシェア数などがリセットされるそうです。
もともと弱小ブログですが、まあ記事の拡散数とかはあまり気にしないでくださいという話です。
2件目は、
ものは試したろうと思ったのでTwitter始めました。
記事更新とかのツイート、あとは日々考えてることのぼやきを投稿しようと思います。
なぜTwitter始めようかと思ったかというと、
プライベートでは、Twitterを確か2010年からかれこれ10年近くやってますが、今は多数と繋がろうとかあまり思っていないので暫く鍵付きアカウントでやっていたんですね。
でも鍵付きアカウントで、もともとのフォロワーに記事更新ツイートしても拡散されないので(リツイートできないので)ブログを似たような人に沢山見て欲しいという純粋な拡散欲求がそろそろ満たせなくなってきたというのが理由です。
あと、普段あれこれ考えてることはプライベートアカウント内では垂れ流しなんですが、そろそろ世間に一旦出してみて反応を伺ってみようじゃない…と思ったので。
デジタルマーケティングかじってはいましたが、アカウント育てるのは初めての試みなんで、まあ一般人のアカウントとして気まぐれにチェックしていただければ幸いです。
オタクやってる時はフォロワー増やすの得意なんですけど、こういうブログ書く系のアカウントでやるときはどうやって人と繋がればええねん…と、タグ選びで難関ぶち当たってます。笑
筆者名としてハンドルネームもつけたほうが、多分個人の方とも繋がりやすいですよね〜
ハンドルネーム募集。
それではお知らせ記事はこの辺で。
閲覧ありがとうございました。
おやすみなさい。
最近の悩みについて話すよ【思考メモ】
こんばんは、少し間隔が空いてしまいました。
今これを読んでくれている方、お元気でしょうか。
私は若干風邪気味?だったんですが、なんか今は元気になりました。
今日はタイトル通り、最近の悩みについて自分の脳内の整理がてら書かせて頂きます。
あ、これはどうでもいい私の記事の書き方の癖なんですけど、
先に目次立てずにまずバーーーーっとその場の勢いで頭の中を書き出してくというか、パソコン打ちながら考えるんですね。で、その後で話を見返すと「区切り良い感じのとこあるから目次に整理できそお」となるので、目次打ってく感じです。
メディアの記事書くときはまず構成から考えるとかも会社で言われたけど(もちろん論文とかもそうだったよ!)、向いてないんですね。
構成考えてる時の方が50倍面白いこと考えてるのに、目次レベルの粒感までに言葉をスリムにさせてる間に消えるんですよ。
忘れっぽいのかな・・・あ、でもレンジ回したりお湯沸かしてる間に別のことやってて忘れて放置したり、さっきまで手に持ってたものをどこに置いたか忘れるので、ほぼ確実に忘れっぽいですね。
てことで、私のブログは野球部の甲子園出場後のインタビューのような綺麗な記事ではなく、
野球部の汗臭いユニフォームの匂いとか涙の跡も染み込んだ練習メニュー表だとでも思ってくだされば幸いです。
(文字にも種類とか匂いとか温度感がありますよねって話です)
出来立てほやほやで、下手なりの臨場感もあるけど好みが別れるというところですね。
はい、
どうしても要点が整理された文章しか読みたくない理論派の方は
適当に打った本日の目次どうぞ。
多分要所要所のキーワード程度は押さえてあります。
そもそも何を悩んでいるかについて
これは更新が滞っている間何をやっていたのか、の理由にもなりますが、
改めて2021年の進路について考えるために色々な人に話を聞いたり相談したりしていて、結果色々と悩んでいたからです。
調べたり、相談すると情報が沢山手に入るから自分の中に選択肢が増えますよね。
それはもちろん、井の中の蛙になるよりかは大分良い状況なわけですが、
私の場合「こうしよう」と考えていたルートが「もしかしたらよろしくないかもしれない」と思うので大分軸がブレて困惑するわけです。
情報って大切だけど、それを整理して取捨選択する能力がないと扱いに困るもんですよね…
情報リテラシーは意識してきたつもりですが、完全に踊らされとる感じになってます。
ここからはもっと自分語りになりますが(そもそもこんなブログ自分語り以外の何者でもないですが)
私は大分頑固でマイペースなので、自分で一旦そこそこ調べた上で「こうする」と決めてるわけですよ。
今の時代に生まれた恩恵として、Googleもあるわけですし。。
前職でデジタルマーケティング関わってたのでデジタルには大分ネイティブですし!情報収集力はオタク人生で磨きましたし!
(あ、これ今デジマ関連で思い出したんで本当に余談なんですが、先日「Netflix」で検索したら、一位掲載の広告枠がなんとU-NEXTだったんですよね。で、しかもタイトルには「U-NEXT」と入れていないんですよ。説明文に小さく意図的に表示させてる。私は、「掲載上位に来るならNetflixだろ」と思ってその広告踏んじゃったんですが、これってカスタマーにとって良い広告って言えるんですかね?Googleはこういう広告について厳しく取り締まって欲しいし、私は競合他社名で広告を出すやり方は非常に嫌いです。というか、「この広告文で行きましょう」って提案したマーケターの性根が非常に嫌いです。そもそも他社を指名検索してる相手が加入すると思いますか?(※まあ0%じゃないでしょうが!)「サブスク 映画」とかで検索してるニーズが顕在化してる相手にお客を取り合うくらいの気概を見せて各社サービスを磨いて欲しいですね。まあそっちも頑張っているのかもしれませんが、一面としてでもこういう面が見えると私は心底嫌になっちゃうピュア星人ということです。はい、蛇足失礼しました。)
で、得た情報の中からある程度選択肢を想定した上で、「やっぱりこれだな」と決めてるんです。
(この場合、正確な理由があるわけじゃなくて大抵は直感的な感じですが)
でも、最近は”人の話を聞いているようでいて、全く聞いていない姿勢を直したい”と思っているので、自分以外の立場の人の意見も聞くようにしているんですよ。
とすると、以下のような現象が起こるわけですね。
- 相談した相手が自分の想定していなかった新しい選択肢を教えてくれる
- 自分の想定していた選択肢について、理論的にデメリットを説明される
- 自分の想定していなかった点について考慮する必要性を教えてくれる
こうなると、もともと自分gogo!だった私は急に体勢が崩れて一旦長考タイムに入ってしまうわけですよ。
(棋士でもないのにカッコつけてしまった)
この選択肢にすべきか、それともこっちの選択肢にすべきか、、、
で、今日この記事で整理したいのは
結論としてどの選択肢が相応しいのか、ではなくて
「なぜ私の考えが揺れたのか」です。
そもそもなぜ私の考えは揺れたのか?
先ほど
急に体勢が崩れて
という表現を使いましたが、これは私の中の思考の揺らぎというよりも、感情的に揺らいだという感覚があるからです。
そもそも、悩むって何かと思ったら、
その原因ってやっぱり根本には自分個人の「不快」というシグナルが発信されたからだと思うんですよね。
まあ後付けで理論的に「この点がこうだと考えたからこう悩んでるんだよね」と説明してみることの方が多いと思いますが。
(表出してくるのは、この論理的っぽく見える部分だけだと思います。)
で、面に出てくる理論ってのは体裁とかしがらみとかいっぱい推し測っている結果論なんで、その理論展開も実は自分にもあんまりよくわからん。。。状態になりますね。
「感情→思考」論でいってみる
もっとシンプルに
感情(というか動物的な本能なのかな?) → 理論立てる思考
の順序で人が動いていると仮定して考えると
いやじゃ〜 → あそこがこうでああだからこれは良くないよね〜
という一連の流れが自分に合ったことを一旦認めて、
じゃあ、なんで自分が「いやじゃ」と思ったのか?を探りたいわけですよ。
※私は脳科学者でも心理の専門家でもないので、この仮定が理論的に正しいのかは置いておきます
で、私の場合を考えますね。
感情が揺らぐ原因分析:私の場合
私の場合、
まず最近の状況についても不快感を覚えていたと言えます。
その状況を分類すると3種類でしたね。
- 相談した相手が自分の想定していなかった新しい選択肢を教えてくれる
- 自分の想定していた選択肢について、理論的にデメリットを説明される
- 自分の想定していなかった点について考慮する必要性を教えてくれる
次は、それぞれなぜ不快だったのか、
- 感情的な視点から
- 1問1答くらいの単語のシンプルさで
整理します。
①相談した相手が自分の想定していなかった新しい選択肢を教えてくれる
→自分ってリサーチ力ないのかな
→自分の有能感が減ったのがいや
→私より有能な人間が嫌い
②自分の想定していた選択肢について、理論的にデメリットを説明される
→自分の理論が崩されるのが嫌
→自分の直感や論理的思考が相手に劣っている気がする
→私より有能な人間が嫌い
③自分の想定していなかった点について考慮する必要性を教えてくれる
→私の視野の狭さがわかってショック
→私より有能感を出すな
うわ・・・・・・・・・・えげつないくらい自分大好き人間かよ!!!!!!!
という衝撃の事実が発覚しました。
まあ今更衝撃でもない。
まあ少し落ち着きましょう
でも、ここで今回私が思ったのはですね、
「自己愛が高まりすぎた化け物は、そのうち自己愛性パーソナリティ障害になって周囲を攻撃し始めて友達がいなくなるんだ…」とか
「ま〜た自分を悲劇のヒロインぶろうとしてて、ブサイクの癖にキモい」とか、
こうやって自分を化け物扱いして否定する思考じゃなくて
「自分ってば自分のこと大好きなのね〜〜〜〜〜わかる!だって年々賢く美しく慈悲深く素敵になっていってるからね!同担歓迎よ!」とか
「」
こんな感じで一旦今の自分を丸っと肯定する思考なんですよね。
この辺が昔と変わったところかな?と思うところです。
言いたいこと
で、この話をネットに共有して何が言いたいんやと言いますと
(最初はただ悩みを書き連ねて自分一人スッキリしようと自己満で書き始めたら、思ったより良い感じに整理されて着地しそうなので、キショい自己満記事にも少しばかり意味を見出させてください…!(謙遜))
悩んだり思考がまとまらない時、その自分に無力感とか焦りを感じるのではなく
まず「あ、自分何かに感情的に不快を感じてんだ」と捉えること。
その後、「じゃあどこに不快ポイントあった?」と、自分の中で素直に「ぶっちゃけどない?」と一問一答する。
その答えがどうであったにせよ、
「あ、自分こういうとこに嫌になっちゃったんだー」「OKOK、自分ってこういうとこもあんのね、わかるわ〜〜〜だって自分だもの」と一旦現在の自分の状態を肯定する
という地点に立ってみたい。
という話です。
落ち着け、まずは場を作れ
「じゃあ具体的にどんな話をどう整理して、それぞれの選択肢を吟味すれば良いわけ?!」っていう、より具体的かつ現実的な対処はその後に考えれば良いわけですよ。
というか私は後回しにします!!!!!
明日(もう2時半だから今日か…)また考えます。
なんで後回しにするかというと、
思考の体勢を整える方が大事だと思うからです。
ええじゃないか乗りながらプロポーズするかどうか考える人いますか?いませんよね。
そもそも、考えられる状況にねえ!!
考える場、状況として、感情的にフラットに凪いだ状態を作り出すんです。
「自分選手、良い感じに悩んでおります!」と良い感じに実況中継すると多分良い感じだと思います。
自己を客体化するってことなんでしょうね、多分。
この「客体化」って薬を上手く使えずに、『客体化してるものの超絶批判的』だったのが鬱っぽかった過去の自分かな〜とか思います。
その先、どう整理して決断を下すのかについてはまだ私も分からないので、
明日自分にカウンセリング的なことをやって整理してみて上手くいったらまた更新します。
※私は臨床心理士でもないので本当にカウンセリングの技術があるわけではないです。適当にその場で色々思考してるだけです。眉唾でも気にしないでください。
それでは、おやすみなさい〜
ぼちぼち記事更新しようと思います【お知らせ】
こんにちは、このブログには珍しく昼間の更新になります。
そして、明けましておめでとうございます。2021年もよろしくお願いします。
一昨日?あたりに記事更新して「数年後の未来の自分からの手紙」形式で締めたのが『これってめちゃくちゃドラマチックじゃ〜ん』と何か勝手に満足していたんですが、
友達に記事をサブスクするにあたって自分でも過去記事読み返してみたところ、
圧倒的に 連載が途中で止まっている という事実に気がつきました。
これとか
これとかさあ…
目次書いておきながら1、2個しか達成しないってなんなんw
すみませんでした。
勢いで生きてるとこうなりがち。
(過去記事貼り付けて閲覧誘導してるとかそういう意図はないです)
今は大学院進学に備えて色々動いていたり、意外とまあまあやることはあるんですが
基本ステータスは無職で、わりかし暇なので(研究計画書も書いたし!えらい!)
過去の自分が書きたかったことを想像しながら、過去から引き継いで記事更新していこうかと思います。
壮大なリレー日記ですね。
小学校とか中学校でやってた交換日記思い出しました。
こういうことができるから、インターネットとかテクノロジーって面白いですよね。
ちなみに、幼稚園生の自分が将来の自分に向けて書いた手紙では将来の夢が「小説家」でした。
へ〜って感じになりますね。
それで中学生時代に「人間失格」読んだせいで結構自分にグッサリ刺さって死にたくなったのはまた別の話w
あ、あと文学繋がりで思い出したんですけども、昔読んだ文学作品を読み返すとまた違った読解ができて面白いですね。
最近これ読んだんですけど、序盤の夏目漱石の「こころ」なんて、特にその筆頭だよなあと首をうんうん振りながら読んでました。面白いんでおすすめです。
「夢十夜」の解釈も、なるほど!と思いつつ結構腹落ちしたので、文学読む時にも世界史的な教養っていうか、下地?が生きるなあとも思いました。(キリスト教的思想について知っているか、とか)
このブログで公表するのは初めてかもしれませんが、私は世界史専攻で生きてきたので、やっぱり世界とか歴史を知ることは意義深いと思うんですよね。
そりゃ〜宇宙に行く技術とか、いますぐ便利な技術を生み出すことはないかも知れませんけど、「生きる」という点においてはかなり有意義なんですよね。世界が面白く見えるというか、生きる楽しみを見出しやすくなる。
そういう分野もあったっていいじゃん。
というか、そういう”余裕”や”余暇”から人類の発展って生まれたんじゃないの?と思っています。まあ発展って言わなくても、文化とか芸術は生まれてますよね。
古代ギリシア人になりてえ。
やるやる詐欺で、そのうち更新に飽きる可能性もあるので適度に期待してください。
どうぞよろしくお願いします。
すごい蛇足
最近やろうと思っていることリストも書いておきます。
みなさん何やりたいですか?考えるの楽しいですよね〜
□タロットカード買って適当に始める
□アイススケートかバスケをやる(体を動かしたい・・・)
□好きなYouTuberの編集アルバイト凸る
□ストレッチを適当に続ける
□立派なブリが家に届いたら鰤しゃぶをする
□冷蔵庫の整理(これは、今思い出した”やるべき事”…)
□ペンタブ買ってお絵描き再開
□同人誌出すなら何で何を描くか考える
2021年も良い年になりますように。